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愛知県立芸術大学校舎群とキャンパス環境保存に関して現在の実態をお知らせ致します。 県、大学は「改修」と言う言葉を巧みに使い、将来建替えに近いプランである事をうやむやにしています。 実際、現在公開されているプランでは校舎群の空間構成の全方向を塞ぐかたちになる事が予測出来るし、新音楽棟建設による環境負荷ははかり知れません。 なぜ最も自然が育まれた場所に建設しなければならないのか、それを巧妙に「改修」と思わせる意図は何処にあるのか。私達があえて「破壊」「建替え」と言う根拠をここに掲載して行きます。
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大阪フィル、文楽を中心にした文化団体への補助金カットを提唱する大阪とは対照的に、産・政官・学が主導して文化を創ると意気込む愛知の象徴がこれ。
http://web.me.com/shinodanozomi/aichigeidai/%E5%B7%A5%E4%BA%8B%E9%96%A2%E9%80%A3%E5%86%99%E7%9C%9F.html

改革・革新も結構だが、白か黒の二者択一の選択へ誘う政治手法はいかがな物か。確かに間をとってのグレー色は政界や財界であまり良いイメージでは無い。せめて白か青か、、、間は「空色」あたりが妥当なところか。
もっとも東京や大阪の首長さんは、それを重々承知の上で敢えて爆弾を投下する。そこには「みんなも考えて」と言う少しばかりのお洒落さがある。
愛知のそれは、高度成長期真っ直中、日本列島改造論当時の政治手法となんら変わらない。グレー色そのもの。見えない中で産・政官・学が結論ありきの談合をし、見えない様に強引に進行させる。

この両極の二者択一は本当に難しいが、多くの市民はやはり奇麗な空色が見たい。
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 千葉大学院 教授の北原先生のお話をお聞きする機会が名古屋でありました。テーマは「都心における街づくり」と言うものでした。正直、経産省が論じる様な開発ありきなお話であったなら、些かの反論など行おうと勇んで出かけたものの、先生が開口一番仰った言葉は「充分活性している名古屋に、改めて街づくり論が必要でしょうか」…と言うものでした。いやはや、出ばなをくじかれたと言いますか、「まったくもってその通り!同感です。」となってしまいました。
 講義の中核は「ストック利用のリノベーション」と「市民を巻込んで動員をはかるサンデーイベント」です。経済優先の視点で「街づくり」に期待をよせる方々にとっては、旨味の無い話であったことでしょう。端的に言って「人が集って考え→面白さや場所への興味が生まれる→人がさらに集まる→投資による箱物が作られる→結果として活性する」と言うのが先生の論でした。ところが、あの場にいた多くの方は、「新しい商品や仕組み、場所を提供することで人が寄る」と言う概念の集まりであった様な気がします。
 少なくとも街の文化、景観、環境、コミュニティー、そして経済を俯瞰で捉え、独自の市民意識を持った様々な分野の市民が集い考える事から始めなければ、北原先生の論理を体感する事は困難であろうと思います。産・官・学で進もうとする街づくりや活性化には無理があるのです。 経済活動で成立する「産」は当然利潤を追求します。一方存在を優位にしようとする「官」は、より産に近付きます。「学」は言うまでもなく"お抱え御用学者"が用意されます。もはやこの三位一体の体制で、斬新な発想や文化を生む事は出来ません。建てては壊す箱物で埋もれる街は長く人に愛される事はありません。お祭り騒ぎで集客しても精々2〜3日で人は去るでしょう。
 まずは市民一人ひとりが街を見つめ、街を好きになれる様にする事から始める必要があるのではないでしょうか。そうすれば自ずと街を考え、街に集まろうとするはずです。

uses-it.org/nagoya branch
入場者2,204万9,544人の2005年日本国際博覧会(愛知万博)が幕を閉じてはや7年。
「自然の叡智」(Nature's Wisdom)をテーマに「国際博覧会史上初の市民参加型万博」と言われ、賛否は両論だろうが、多くの人に『自然の大切さ』を再認識させ、パビリオン等の建設規定などにおいても環境負荷軽減を考えたたイベントであったと思う。
さて本題だが、その開催地であった愛知東部丘陵にある愛知県立芸術大学が今おかしな事になっている。
何?って、『モリゾーとキッコロ』が住む本物の森に多額の費用をかけてビオトープを作り出しちゃった!
森の住人はモリゾーとキッコロ以外にオオタカやギフチョウ、その他絶滅危惧種までいる本当の里山の森。
芸大だからこれも『パフォーマンスの一種?』と思いきや、そうではなさそうです。いたって真剣な話なのです。ドイツで酸性雨の影響により枯死した多くのシュヴァルツヴァルト(黒い森)の木々を、政治と市民が一丸となって再生させた事は有名な話だが"健康"そのものの"緑の森"を税金で切り倒し、税金でビオトープを作ると言う発想は世界の中でも愛を知るこの県くらいのものであろう。首長さんが長良川河口堰開門を公約に掲げ奔走するも『川に来た事も無い者に色々言われたくない』と流域漁師さんから一蹴され、今度は『緑の森にビオトープ!』いったいこの県はどうなっちゃてるの?長良川河口の広大な野鳥観察用?干拓地は永年立ち入り禁止のサバンナ!いっそのこと山にお城建てて武将隊を住まわせ、広大なサバンナで合戦大会でも開催してみてはどうだろう。そのイベント収入で森の音楽会を開いてみては?。
2011年12月19日(月)


 先般環境省からCOP10開催地である名古屋市に、『議長の木槌』が寄贈された。
議長を務めた先の松本龍環境大臣は自身の記念でもあり、生涯大切に持ち続けたいと
おっしゃていた様だが、愛知県や名古屋市、大学機関などが進める東部丘陵生態系ネ
ットワークの真摯で正義感ある姿勢におされ、手放す事を決めたそうだ。
開催国議長のみが持つ事を許されるこの木槌。間違っても里山や里川を崩すハンマー
とならぬ様、責任を持ってジャッジしてもらえる事を望みます。
東部丘陵から見えない様な国際展示場のお飾りにせず、周囲を良く見渡せる『愛知県立
芸術大学ギャラリー』にでも展示してみてはいかがでしょう。
2011年12月19日(月)


 ジャーナルを直訳すると日誌(Diaryより文学的な)、刊行物、議事録、機関誌、
航海日誌、仕訳帳(簿)などとなる。日誌、刊行物を除けば、比較的「律儀な」と言
うか「あるがまま」に記載して行くものを指している様だ。このジャーナルを投稿し
てゆく者が「ジャーナリスト」。
 19世紀のイギリス人、ブルワー・リットンによる戯曲『リシュリュー』に登場する
言葉で『ペンは剣より強し』と言うのは、福沢諭吉を祖とする慶応義塾のエンブレム
でも知られている様に、民主的、非暴力、言論主義的イメージの象徴として理解され
ている。『リシュリュー』とはフランスの実在の人で、1600年初頭王政時の首席国務
大臣として中央集権体制の確立と王権の強化に尽力した歴史上の人物である。
 実際には自身に対峙する勢力を粛正したり、諜報機関を用いての徹底した弾圧を行っ
た強権的な貴族政治家であった様だ。そのため剣を使って正々堂々戦うより陰謀を巡
らせ、暗幕の力で人々を従わせると言う理解の方が現実的な根拠であろう。
 景気の低迷、政治不信、天災・人災への不安、増税への懐疑など等、人々が抱える
問題は増加するばかり。「円高、本日の終値は…」、○○党は頼りなく、○○党は中
身が無くて反対するばかり、原発事故は想定内の人災だった、大臣の発言が大問題!、
さぞやジャーナリズムにとっては題材に事欠かない時代であろう。やや俯瞰的視野で
見てみれば、カラカラに乾燥した草原にマッチを擦る様なものである。投じた炎は瞬
く間に燃え広がり時の総理大臣の首さえもすげ替える。炎が消えかかる頃には「政治
家を選んだのは国民だ」、「風評に右往左往するのは良く無い事だ」と、他人ごとの
様にもっとも論で締め括る。
 自論、社論を論じるのもおおいに結構だが『闇夜のリシュリューのペン』にならぬ様、
時にはメディア・リテラシーを再認識し朝日の中で自身の検証も行ってほしいものだ。
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